エルトゥールル号 | アルカスコーポレーション/Arcus Corporation

エルトゥールル号

先月のこと、2006バレーボール世界選手権に向けて我が南砺市福野でキャンプを行なっているトルコ女子ナショナルチームの歓迎会が南砺市内で行なわれた。12人の選手の他、マネージャー、ヘッドコーチ、コーチ、ドクター、トレーナー、管理栄養士、セラピスト、心理学者など総勢22名が出席された。地元のライオンズクラブでは、念入りに受け入れ準備を進めたはずだったが、料理に関してはトルコ側からの要望にこたえられたとは言い難く、我々の歓迎の気持がどこまで選手に伝わったか心配になった。ただ、アトラクションで用意した伝統ある『福野夜高太鼓』には、大きな拍手が沸き起こったので少々胸を撫で下ろしている。このような民間の交流も重要な「外交」という意識を持つ必要があり、準備にぬかりがあってはならないと私は思う。  トルコと言えば、日本の友好国のひとつであるが、その裏には日本の歴史教科書では教えない重要な歴史がある。それは、1890年、明治天皇に謁見して横浜からの帰途についていたオスマントルコの使節団など約600名を乗せたエルトゥールル号という船が、大型台風によって紀伊半島沖で難破した。これを発見したのが、和歌山県串本町(当時は樫野村)の灯台守で、すぐに樫野の村人に助けを求めて走ったという。村民は、嵐の中で助けを求めるトルコ人を夜を徹して助けあげたが、助け出したのは、わずか69人だった。村人の介護は献身を極め、自分達の食料を与えて69名の命を救い、そして亡くなった約600名の遺体は、村人によって丁重に弔われた。その話は、その後、明治天皇に伝えられ、天皇は、2隻の軍艦を派遣して生存者は祖国に送り届けられた。  先にも述べたようにこの話は日本では教えられてこなかった。私も今から6年ほど前に、あるメールマガジンで知った。私は、93年から95年にアメリカのシアトル近郊に2年間住んでいたが、その時、トルコの留学生と知り合いになった。彼等は日本人である私に積極的に話かけてくれて大変フレンドリーであった。彼等の人懐っこい笑顔は今でも脳裏に焼き付いている。今思うと、きっと歴史の授業でこの話を学んでいたに違いないと感じる。当時、私がこの話を知っていればもっと親密になれたのではないかと思うと残念でならない。  この話には、続きがある。1979年にイラン・イラク戦争が勃発。1985年には、アメリカから支援を受けたイラクのサダム・フセイン大統領が「48時間以内にイラン領内を飛行する全ての航空機を爆撃する。」と無差別爆撃を宣言。イラン国内にいた外国人はパニックになり、国外退去を急いで空港になだれ込んだ。この時、世界各国は素早く自国民を救う為の救援機を派遣したが、当時の日本政府は決定が遅れ、邦人215名が空港に取り残されることになってしまった。しかし、このようなタイムリミットが迫る絶望的な状況の中、何の通告もなく2機の航空機がどこからか邦人救援に駆けつけてくれたのだ。それこそトルコ政府から派遣されたトルコ航空の航空機だったのである。こうして危機一髪で邦人は助け出され、無事成田まで送り届けられたのであった。  トルコでは、エルトゥールル号の乗組員が日本人によって救助された歴史はしっかり教えられており、その約100年前の恩義に報いる為に絶体絶命の邦人救援にテヘランに航空機を派遣してくれたのだ。凄い話である。トルコの女子バレーボールナショナルチームの方々をお迎えしていて、ふとこの美しい話を思い出いだした。  わが社の経営理念を考える時、この話は顧客満足の原点を教えてくれるように思う。 元になった話 「エルトゥールル号の遭難」文・のぶひろ としもり http://www.peace2001.org/gpc/gpc_mn/gpc_mn_bn10.html 12月5日